著書:尚円王妃・宇喜也嘉の謎

            ●序章● 私が『ほんとうの琉球の歴史』を書いた理由

 

 

◆学校が教える「歴史」

 

 この本を手にとってくださったあなたは、沖縄で生まれ育った方でしょうか。それとも、県外の方でしょうか。いずれにせよ、沖縄の歴史と文化に深い関心をお持ちなのだと思います。

 もし、あなたがウチナーンチュ(沖縄人)で、県内で教育を受けてきたならば、郷士の歴史を学ぶ一環としてかつて独立国であった「琉球」の歴史を学ばれたことでしょう。

 沖縄の島々には、太古の昔から人間が住んでいました。

 実は広く知られていないようですが、日本最古の化石人骨は沖縄で発見されています。

 一九六二(昭和三七)年、那覇市山下町の山下町第一洞穴遺跡から八歳ぐらいの女の子のものとみられる大腿骨の骨が発掘され、地名にちなんで「山下洞人(やましたどうじん)」と名付けられました。

 また、一九七〇(昭和四十五)年に実業家の大山盛保(おおやませいほ)が発見したことで有名な港川(みなとがわ)人は、約一万八千年前に南城市玉城にある、現在港川フィッシャーとよばれている場

 所のあたりに住んでいた人々です。ほか、八重山諸島でも旧石器時代の化石人骨が発見されています。沖縄は、数万年もの間、数多くの人間たちを育み養ってきた「母なる島」でした。私たちの祖先は、この素晴らしい島々で連綿と命をつないできたのです。

 ところが、教科書では、なぜか山下洞人や港川人が、「現在の沖縄人に直接的な先祖かどうかはわからない」としています。一方で、港川人は本土日本人のルーツであるというのです。沖縄で見つかった人骨が、当地の人間の祖先とはいえないが、海を隔てて数百キロ離れた本土の祖先であることは明確である。そんな不思議なことがあるでしょうか? 常識的に考えれば馬鹿馬鹿しいとしか言いようがありません。

 ですが、学者の世界では、これが「科学的に正しい記述」ということになるのだそうです。

 なぜなら、沖縄では港川人以降は、縄文時代の人骨や石器しか発見された例がない。証拠がない限り、あるとは言えない。よって教科書には沖縄人の祖先はわかっていないと記述する。

 それが学者の世界の常識で、さらにその常識に従う限り、港川人はいったん絶滅し、縄文時代になって全く別の人々が海からやってきたという説もありうる、ということになるのだとか。

 立派な学者がこうした説を大まじめに唱えていると知ったとき、私は本当にがっかりしました。私には、その説が大間違いであるとわかっていたからです。

 なぜわかっていたか、って?

 それを説明するには、私自身のことを少々お話しする必要があります。話が脱線するように思われるかもしれませんが、しばらく私の生い立ち話にお付き合い下さい。

 

神人として生まれて

 

 私は、沖縄本島北部に位置する今帰仁(なきじんそん)崎山(さきやま)地区のごく一般的な家庭に、八人兄弟の七番目、三女として生まれました。どちらかというと両親ともに霊的なことには全

く無関心な家庭でした。

 幼い頃から虚弱体質だったため、始終医者にかかっていました。医者といってもまともな医者ではありません。主な治療方法がお灸などの民間療法です。幼心にもこの治療が恐ろしく、医者に行くと言うと心底憂鬱になったものでした。

 だからといって、ユタに頼るようなことは一度もありませんでした。子が病勝ちだとユタに頼る人は少なくありませんし、実際親戚には始終ユタ買いしているような家もあったのですが、うちの親はむしろそうしたことを避けていたようでした。両親共に若い頃をペルーで過ごしたために、伝統的な民間信仰に興味がなかったのかもしれません。

 そうした環境でしたから、私自身、迷信的なものとは一線を画す幼少期を送っていました。

 しかしながら、自分が変なものを見る体質であることにも、早くから気づいていました。詳しいことは『ニライカナイの風』(角川学芸出版・上間司名義)という本に書きましたが、物心がつくやつかずやの時期から霊を見始めていたのです。

 村の神アシャギの前でいるはずのないノロ(祝女)の姿を見たのが一番古い記憶で、それ以降も普通には見えないモノの姿を見続けました。そして、予知夢的な夢も頻繁に見ました。その中には、神のお告げとしか言えないような不思議なものもありました。

 しかし、そうした話を父母にするとたちまち不愉快そうな顔をして、

「なにかと見間違ったんでしょ」

「単なる気のせいよ」

「それはただの夢だ」

などと軽くいなされるばかりで、一向に取り合ってもらえません。それどころかしつこく言い続けると「いい加減にしなさい! 霊だの神だの、そんなものはいません!」と雷を落とされる始末です。

 そんな状態でしたから、いつしか私自身も自分の見ているものを否定し、神や霊といった話は意識して遠ざけるようになっていました。

 しかし、学校に上がる年齢になると始終なにかからの「合図」が送られてくるようになりました「合図」とは神や霊からお知らせをされることで、どんなお知らせかは、誰にでもわかるわけではありません。この合図がかけられている状態を「カカイムン」と言います。(本書では霊からの声を「合図」、神からの声を「信号」と表記しています。)

 特に高校二年生になった頃からは明らかな「カカイムン」状態が続いていたものの、それは単なる体調不良が続いているだけだと思い込むことにしてやり過ごす、若い頃はそんな日々を送っていました。

 ですが、三十代になると、もう「単なるの体調不良」ではすまないような状態になってきました。しきりに神からの信号が送られてくるようになったのです。手を替え品を替え、神はあらゆる手段で私の宿命を悟らせようとしました。このあたりのことも前著にくわしく書いていますが、霊的なものを否定し、絶対に関わりたくないと思っている私を改心させ、この道に導こうとする神の信号は、それはもう苛烈なものでした。

 頭が割れるような頭痛が毎日続き、日常生活もままなりません。病院に行っても原因不明と告げられるばかり。今思えば、死なない程度に生かされていたのではないかと思います。

 結局、あまりのつらさに耐えかね、とうとう自らユタに見てもらうようになっていました。少なくとも苦しみの原因が霊的なものにあることぐらいは認めざるをえなかったからです。

 でも、いくらユタに言われるがまま拝みをしても、一向に良くなることはありませんでした。それどころか症状は悪くなるばかりです。さらに、ユタに支払うお金を工面するために貯蓄を使い果たし、とうとう借財までするようになりました。本土の人たちもお寺や神社にお参りをしますが、その時に大金を支払って祈祷師を同行させるようなことはしません。なぜ沖縄にだけこんな馬鹿な習慣があり、みんながそれを繰り返しているのだろう。いつしか、私は強い疑問を持つようになっていました。

 今思えば、ユタとは言いつつ、十分な力を持たない人に頼っていたわけですから、結果が出ないのも当然です。ユタの皆さんは、大抵「私の霊力が一番強い(チューバー)」とおっしゃいます。しかし、十分な力を持たないユタでは満足な拝みをすることはできません。

 薄々それに気づいていながらも、私は半ば意地になってユタ買いを続けていました。

 私は霊能者ではない。だから、プロに任せるんだと自分に言い聞かせ、その一方では全く無駄な拝みを繰り返すユタたちに不信感を募らせていく・・・・・・。本当に馬鹿なことをしていたと思います。

 しかし、最終的には自分に霊的な力があることを認めざるをえなくなっていました。なにせ、拝みをしているユタたちが気づかない霊の声や神からの信号を私だけは受け取ることができたのですから。

 紆余曲折を経て、最終的に私が自分の力を受け入れ、神人(カミンチュ)(神や霊仕える霊能者のこと)としての宿命を受け入れるようになったのは五十歳を過ぎてからのことでした。

 神や霊からの場合は外国人の合図であっても受け取ることができます。また沖縄だけではなく、日本各地、世界中でも同様の合図や信号を感じることができます。

 数年前にミャンマー(旧ビルマ)の都市ヤンゴンへ行く事になりました。初めての場所なので、地図を準備して向かいましたが、現地では地図を頼りにというよりも、送られてくる信号の方向へと車を走らせたところ、歴史上の人物にたどりつく事ができました。同行していた現地の方は「あなたは以前にもミャンマーにきた事があるのですか?」と驚かれていました。

 神や霊が信号を送ってくる時は、導くままに行けば、その場所へ行く事は決して難しい事ではありません。

 

霊に教えられた歴史の真実

 

 その後、私は人間の魂というのはきちんと成仏させない限り、心臓が止まった場所の真下、地中深くに沈み込み、その場所で永久に苦しみ続けるのだということを知りました。地中深く動けないでいる神や霊を救い上げ、天に上げる(昇天させる)ことを「ヌジファ」と言います。(土葬や埋葬はその土地に魂が残ります。ですから墓地跡に住居を立てるのは注意した方がいいのはそういう訳です。ただし火葬の場合はほとんどと残らないようです。)

 以来様々な神や霊のヌジファをして今に至っているわけです。最初の頃、合図を送ってくるのは実家に祀られている先祖でしたが、次に私に合図を送ってきたのはもっぱら「裸世(ハダカユー)」、つまりまだ裸ん坊で暮らすのが当たり前だった頃の、お猿さんのような祖先たちでした。私としては、やっと自分の先祖をきれいにできたと思って、ほっとしたのもつかの間、またしてもかかってきた合図に一難去ってまた一難、という気分だったのですが、結果的に、彼らこそ「ほんとうの琉球の歴史」を教えてくれた最初の先生になったわけです。もし、彼らがなんの縁もゆかりもない人たちならば、私に合図が来るはずがありません。霊というのは基本的に自分の直接の子孫にしか合図しないものです。

 だから、私は明言できるのです。沖縄各地で発見されている化石人骨は、私たちウチナーンチュの直接の祖先だ、と。

 彼らが途中で滅亡しただなんてとんでもない。私自身の祖先である裸世の人々が「私たちは外から来たものではなく、この島で生き続けてきた。そして、お前たちへと命を繋いだのだ」と訴えているのですから。

 これは、学者が学べるものではありません。

 以前出版した『ニライカナイの風』の中で、私は次のように記しました。

 

 もちろん、彼ら(著者注・裸世の霊のこと)の言葉を証明するものはなにもありません。ですから、頭の固い学者などはきっと顧みもしないことでしょう。しかし、私はこれが事実だと確信していますし、事実である以上、いずれ時が証明してくれるものと考えています。

 

 これを書いたのは、二〇一〇年のことです。

 そして二〇一二年十月、私の期待に応えるように、裏付となるような考古学的発見がありました。

 南城(なんじょう)市のサキタリ洞遺跡で約一万二千年前の人骨と石英(せきえい)製の石器が出土したのです。

 このニュースを伝えた『琉球新報』の社説記事を少し引用してみましょう。

 

 今回の発見が重要なのは、旧石器時代の石器が同じ遺跡で見つかったからだ。国内初である。旧石器時代人の生活の痕跡が、推測でなく、初めて疑いのない形で明らかになったことになる。

 旧石器時代の道具が沖縄で発見されること自体、初めてだ。沖縄で旧石器時代の石器が発見されないのは従来、謎とされてきた。謎の一つが解き明かされ、旧石器文化が確かに沖縄に存在していたことを実証したことになる。

 沖縄では港川人以降、6千~7千年前の縄文時代まで人骨や石器が発見された例はなかった。そのため港川人はいったん途絶え、縄文期に全く別の人々が渡来したという「港川人絶滅説」もあった。その空白を埋めたという意味でも貴重な発見だ。港川人と現代をつなぐ意味を持つ。研究の進展を期待するゆえんだ。

 

                           (『琉球新報』二〇一二年十月二十日)

 

 この発見で、港川人滅亡説を唱えていた学者は、自らの不見識を認めざる得なくなったことでしょう。自分たちが見つけたものだけが歴史のすべてと思うのは間違いだということに今さらながら気づいたのではないでしょうか。でも、学者というのは自分の唱えた説に誤りがあったとしても、なかなか認めようとはしないものです。

 私は、『ほんとうの琉球の歴史』の中で次の様に述べました。長くなりますが、重要な部分ですので引用したいと思います。

 

 現在、教科書などでは旧石器時代から貝塚時代までには約五千年の空白があり、港川人を始めとする裸世の人たちは、琉球人の直接の先祖ではないなどと教えています。

 しかし、空白なのは学者の頭の中だけ。悠久の時を超えて命をつないだ人々が、グスク時代以降、琉球という国家を形成していったのです。『中山世鑑』には天孫王統が二十五代、一万数千年続いたという記載がありますが、これは沖縄には昔から琉球人が住んでいたということを、当時の史書らしい形で表現したものではないでしょうか。

 もちろん、沖縄には一貫して原住民しか住んでいなかったなどということはありません。東シナ海に浮かぶ島だけあって、外部から海をわたって移動してきた人たちもたくさんいたようです。

 実際に、私が昇天させた昔の霊のなかには、大陸からやって来たと言う人たちもいました(ただし、時代はずいぶん下りますが)。遺跡からも海を渡ってきた遺物がたくさんでてきています。ですが、それらはあくまで古代琉球が外部と頻繁に交流していたことを示すものであって、琉球人の全員が海を渡ってきたことの証明にはなりません。

 おそらく、今後学術調査が進んでいけばいくほど、これまでの「常識」は覆されていくことでしょう。学説が事実に歩み寄ることはあっても、その逆は絶対にありえません。あってはならないことでもあります。

 (『ほんとうの琉球の歴史』第一章「琉球のあけぼの」)

 

 もちろん、今回の発見は粛々と発掘作業をしてこられた皆さんの努力のたまものであり、出土を誰よりも喜んでおられるのはそうした方々だろうと思います。

 私が強く批判したいのは、真実の探求を目指して現場で日々がんばっておられる研究者の方々ではなく、肩書きだけで自らを権威と思って適当なことを言っている学者や、歴史的な遺物を私(わたくし)して金儲けの材料にする人々、そして観光資源として利用できる遺跡にしか興味を持たない行政なのです。

 先ほど引用した琉球新報の記事の続きでは、沖縄の島々に点在する貴重な遺跡が満足に発掘調査されず、保存態勢も十分とられないままの状態が続いていると指摘しています。東アジアで発見された中では最も保存状態が良かったとされている港川人の化石人骨を出土した遺跡ですら、最近になってようやく文化財指定の動きが出始めたばかりだそうです。なんとも情けないことですが、ようやく時代が変わり始めたことは喜ぶべきでしょう。

 

歴史の真実を伝える理由

 

 私が、私なりに知ることができた歴史の真実を書き残さなければならないと思うようになったのは、こうした状況と無関係ではありません。

 数十年来神人(カミンチュ)の仕事をしていくなか、私はいくつもの崩れかけた遺跡や顧みられなくなった墳墓を、霊に導かれるままに見てきました。時の流れに埋もれた重要な事実に気づくこともありました。さらには、歴史の真実が町おこしのために歪(ゆが)められるのを目の当たりにしてきました。その度に強い怒りと悲しみを感じてきたのです。そして、それは祖先の霊たちの怒りと悲しみでもあります。

 現代のウチナーンチュには、祖先のために、そして今を生きる私たち自身の誇りのために、本当の歴史を知る権利と義務があるのではないでしょうか。

 そう考えたからこそ、私は前著に『ほんとうの琉球の歴史』という題名をつけ、世に問いました。

 大学で歴史を学んだわけでもない、まったく無名の一民間人である私の話に耳を傾けてくれる人がどれほどいるのだろうか。しかし、真実はおのずと伝わるはず。

そんな信念を持って出した本は、おかげさまで多くの皆様に受け入れられ、県内書店でもベストセラーとなり、版を重ねることもできました。

そして、驚いたことに講演をすることになりました。高名な学者や作家ならいざしらず、本を一冊出しただけの民間人の話を聞きたいと思う人などいるのかしらと思ったものの、いざフタを開けると満場のお客様の前でお話するハメになりました。

それでなくとも途切れることのない拝みのご依頼に、講演活動まで入ってしまい、数少ない休みがさらに取れなくなってしまいましたが、体力の続く限り、どちらも続けていきたいと思っています。それが、私の役目だと思うからです。『ほんとうの琉球の歴史』を出したことで、まずは私が知り得た歴史の、おおまかなところはお伝えすることができました。

ですが、通史として古代から近世という長い期間を扱ったため、細かい部分では書ききれないところもありましたので、もう一冊、本書を書くことにしました。

今回の本で主題となるのは、第二尚氏(しょうし)の勃興(ぼっこう)期に暗躍した宇喜也嘉(おぎやか)の真実です。

宇喜也嘉は第二尚氏の始祖となった尚円王の妻、そして第二尚氏王朝の基盤を築いた尚(しょうしん)王の母です。そして、琉球史上まれに見る烈女でもあります。彼女が良くも悪くも歴史に与えた影響は決して小さくありません。

それにもかかわらず、琉球王朝の正史では名前以外の記述がありません。宇喜也嘉の権勢がいかに盛大だったかは、外国の資料やほんのわずかな考古資料にかろうじて残っている記録から読み取るしかないのです。

王朝の始祖となった母后であり、中国史における則天武后(そくてんぶこう)、日本史における持統(じとう)天皇にあたるような絶大な力を持っていた女性が、王朝の正史では黙殺されたのか。

そして、歴代王族が眠る玉陵から排除されたのはなぜか。

宇喜也嘉の謎を明らかにすることは、琉球の近世とはどういうものであったか、そして歴史とはいかにして「造られる」ものなのかを知る近道になると私は思うのです。

烈女・宇喜也嘉。彼女を通して見えてくる「歴史の真実」は、きっと皆様にも興味深いものになると思います。

とはいえ、本書に登場する「歴史の真実」は、私が宇喜也嘉を含む歴史上の人物の霊から直接聞いた(正確には感じた、というほうが近いのですが)内容や、私が自分の足と耳で集めた事実を元にしていますので、教科書の歴史しか知らない方はかなり戸惑いを感じられることもあるかと思います。

そこで、まずは前著『ほんとうの琉球の歴史』で書いたことを簡単におさらいして、本書のいう「歴史」とはなんなのかをご理解いただくことにしましょう。